(2019年末、かねてから帰還困難区域に同行したいと言っていたお母さんと共に帰還困難区域へ。その時の率直な感想を執筆していただきました)
11月の小雨降る朝4時半、私達は仙台を出発した。
行き先は福島の帰還困難区域。
ここから先、線量が上がり始めるであろう手前のSAで車を止め、諸々の準備を各々で始める。
コンビニで朝食と昼食。
服、マスク、機材の確認。
(私はど素人なので機材の確認はできないけど。)
一眼レフの使い方も教わる。
うっすらうっすら、夜が明けてきた。
常磐道を走っていると、程なくしてシンチレーション測定器の数値が徐々に上がり、
アラームが鳴り始めた。
高機能マスクを着ける。
窓がきちんと閉まってるか、車内の空調が内気循環かを確認する。
今回、この福島へ同行させていただくことは
私が私個人として感じていた義務と、
震災から8年、毎日のように調べ、勉強し教わり、
見てきた動画や画像などの確認作業のつもりでいました。
信号だけが動いてる無人の街。
野生化した動物が歩き回る道。
でも違った。
少しだけ違った。
いやある意味、ずいぶん違った。
動画や画像でよく見る看板が道路脇に出て来始めた。
本当にあるんだ、こんな看板が。
車は思ってたより沢山行き交っていた。
人もいた。ほとんどが作業をしている人。
解体作業や修繕作業をする人。
新しく建物を建てたり、街に数軒のコンビニやガソリンスタンド、飲食店、
行かなかったけど恐らく1軒あるスーパーで働く人。
でも街を普通に歩く人はほとんどない。
道端で立ち話も、犬の散歩も畑を耕すこともない。
ほんの数軒のそれらのお店もあるのは帰還困難区域外。
それでも他に比べたらとても数値は高いのだけど。
その帰還困難区域外には避難して解除された後に戻ってこられたであろう方々もいる。
ちらほらと綺麗にした家や庭がある。
建て直した家、庭には色とりどりの花を植えている。
でもその両側には荒れたままの家。
車もそのまま、窓ガラスもない。取るものも取らず避難したのだろう。
残念だけど泥棒も入ったのかもしれない。
荒れた状態は民家だけではない。
点在するあらゆる店もだ。
個人で営む小さなお店も全国チェーンの大きなお店も。
お店すら着の身着のまま状態で避難したんだろうと思う。
そしてスクリーニング場が何か所もある。
たぶん帰還困難区域内で作業をする人や一時帰宅された住民の方のためなんだろう。
帰還困難区域に入るとシンチレーション検出器のアラームは、
耳がおかしくなるほどけたたましく鳴り続ける。
街中をゆっくり走る私たちの車は、後続の車に道を譲るのに端に寄せて車を止めるのだけど本来駐車スペースだった場所には
「帰還困難区域につき長時間の停車はご遠慮ください」
という看板が必ず置いてある。
帰還困難区域内は1件1件の家の入口に柵があり中へ入れなくなっている。
主要道路から左右に伸びる脇道の入り口がすでに封鎖されてる所も多々ある。
主要道路の入り口にも警備員が立っている。
道路脇の柵の向こうにある家も荒れてもう住める状態ではない。
遠目に見える大きな家。広い庭にはやはりそのままの車と少し錆びたブランコ。
時間が止まったままの学校の時計。
合間に続く綺麗な紅葉。
それはそれはもう本当に綺麗に赤や黄色に染まっている。
整備はされてないけどそれでも見事な紅葉。
橙色の柿が重そうに実る柿の木、栗の木の下にはイガが沢山落ちている。
穏やかに流れる川。
1度だけ猿に遭遇した。
柿も栗も恐らくたらふく食べたのだろう。
その前に置かれた黒いフレコンバックの山。
今まさにそのフレコンバックを積む作業をしている人もいた。
上から下まで真っ白のタイベックとマスクの人もいれば、
普通の作業着の人もいる。マスクすらしない人もいる。
今年の4月に一部避難指示解除された大熊町の役場に行くと、
それまでけたたましかったアラームが少し緩やかになった。
真新しいアスファルト、美術館のような役場。
その敷地内と周辺だけがやたらに数値が低い。
富岡町の帰還困難区域外には東京電力の廃炉資料館がある。
綺麗な洋館。
中もキレイで1つ1つ丁寧に説明されている。
私のような素人にもわかりやすく解説されている。
まさに今まで調べたり勉強したことの答え合わせのように。
廃炉に関しての一定の誠意はそれなりに理解できた。
でも、どうしても私は腑に落ちない。
これを造るのに相当のお金をかけてるはず。
そのお金、もっと必要なところに回せなかったのかな。
この資料館自体、もっとみんなが行きやすい場所に作れなかったのかな。
まだ少し、私が知りたいことの答えがどこにもなかったな。
海側へ行くと先ほどまでとはまた違う光景が広がる。
空き地にポツンと立つ家。
1階は壁も窓も何もない柱だけの状態。
小学校があった。
やはり1階だけガラスがない。何もない。
倒れたままのお墓。荒れ果てた集会所。
壊れた壁に乗り上げた小型トラック。
津波の脅威が生々しい。
本当はもっと家が立ち並んでたのだろう。
整備された漁港には数艘の漁船。
すぐ後ろには建設中の中間貯蔵施設。
ほんの数キロ先には福島原発が見える。
壊れた家を見る度に思う。
結婚して借りたばかりの部屋かもしれない。
初めての一人暮らしかもしれない。
子供ができて新居を構えたのかもしれない。
代々受け継いだ由緒ある家かもしれない。
そんな大事な家をどんな思いで後にしたのだろう。
生まれ育った街をどんな思いで後にしたのだろう。
入れない柵、見慣れない看板、日常の空気がない街。
私の住む東京には年間積算線量が50ミリシーベルトを越えるような区域はない。
バイクや歩行者が通れない場所などない。
線量が高いから長い時間停車できないなんてこともないし、
タイベックを着た警備員もスクリーニング場も家の前のバリケードもない。
8年経った今もそんな状態の街が同じ日本の中にあることを
私達は忘れてはいけないのだと思います。
「復旧」は壊れたものを戻すこと。
「復興」は以前の状態に戻すこと。
その何気ない日常を送ることができて初めて復興が終わるのだと私は思います。
その復旧・復興のためにこの高濃度放射線区域で毎日沢山の方々が働いています。
本当に頭が下がる思いです。
どうかどうかお身体だけはお大事に。
asano7
(車内で過ごしていたため、一日でのトータルの積算線量はこのくらい(2.25μSv)でした。)
参考映像(後日撮影)
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